老師

冬空の朱色は橙色の電球に移り、残りを部屋の黴が籠った調具に色づかせ、空間を徐々に暖め始めた
針のない蓄音機
鍵をなくした戸棚
反射しない鏡台
絵を奪われた額縁
柄のない絨毯
爛れた壁紙
取っ手のないドア
格子を外した窓
眼をなくした人形
人をなくした青年
名をなくした老人
無機有機、有象無象に差別なく
灯りは足りないものを朦々と照らしだす
部屋は、ノイズでうろんだ────


彼女の傍に座った老師は、未だ止まぬ寒雨を映し出す窓を背景に、扉が開くための道筋の組み立てに試行錯誤していた日々の噺をしている
それが、窓に向けられた噺であるのか、この部屋に充溢せしめようとしているのか、それとも、ただの自説自戒なのか、判断はつきかねる

老師は噺をしている
初めから知っていて始めること
人の持ちうる様々な性のこと
在り続ける孤独に苛まれること
噺は大抵憎悪を自身に転嫁して自嘲(或いは自重か)することで終わる

老師は昔、歪みを「直す」仕事をしていたらしい
本人曰く、歪みが「治る」ことはけしてないのだ、と
仕事を着々とこなして生計をたて、性分をみたしていた老師はある時、他の歪みを直す気概が一瞬の内に消えてしまうような歪みを、自身の中に見つけたのだそうだ

噺を終え、皴くちゃな顔を弛ませることで、より一層歪ませた老師は彼女の懐から取り出した煙草を吹かし始めた
火をつけた煙草に耐えられない俺は、様々に溢欠した部屋を後にした