老師

―閑話―

堕落の反復、日々それを繰り行う事から己を保つ何かを昇華できないのであれば、きっと貴方はここから去ることになったとしても、まともにやってゆけるでしょう。

「まとも」とは、すること、させられることにおいて一番負担のかからない比率を見いだし、実践していくということです。

堕落の反復とは、次の行程を「見いだす」という作業の観念自体を放棄することに他なりません。

幸福の基準が与えられている者にとって、放棄とは則ち準普遍的な肯定ツールの損失を意味するでしょう。それは購い難い過ちです。

然れども、畢竟などという言葉で人を要約することはあってはなりません。

絶えずその形を変えて様々に循環するもので、捉えることは出来ても、取り出した時には既に「それ」でなくなっているからです。

では私は。どろどろに融かした歪みを、「型」にはめて直していた私は、何をもって鋳型を鋳型と識ったのか。

皆が無意識な内に取得できるものだったのかも知れませんが、この仕事を生業としている私には、とても看過できる問題ではなかったのです。

しかし、一つ一つの型に対する違和感はあっても、型に対する嫌悪感を持たなかった私は、自身を納得させる術として、其等を、一つでも多く収集することを始めました。

 

日常すべてにおける閉塞を塵箱に投げ入れることを強要させた女

 

取り返しのつかない消失との間に交わしていた約束を取り戻そうとする機械になった男

 

日々、自身と自身を輝きの中に移す鏡との誓約の中で右往左往、懊悩する 人 人 人

 

それらは全て歩みを進める度に綻びをみせました。いや、正確には変化していったと考えるべきでしょうか。

しかし、この時既に私は愚かにも、強要し、矯正し、調教することが、、、、

 

あれもまた、私が交わした誓約であったのかもしれません。しかし、そうであるなら、その性分のなんと救いようのないことか。

余生の中で見いだされる過ちほど、取り返しのつかないものも無いのですから。