つまり悠久とは今までとこれから、彼方と此方が連なり肯定される為に必要な繋ぎ目を指すのだ。
永遠とは安住で、永久とは安定で、永劫とは安息で。
人が種として繁栄を続けようとする限りは求めざるをえない、只一つの夢。
それを主観が形を成させた、幽かな、淡い望み。
ならば彼奴等には、必要、ではなく悠久とは必然であるのかもしれない。
俺は違う。俺は解っている。
悠久は必要で
悠久だから肯定で
悠久とは観念なのだ
俺は決して人形ではないのだ。
だから俺は変わらない。
俺が俺たりえようと足掻くことこそが
俺を俺たらしめようと藻掻くことこそが
即ち証と成り、悠久の道をつくるからだ。
今という刻の瞬きが、俺の臓を酷く奮わせ、
悠久への間を拓くことを許すからだ。